三重県鈴鹿市にてたこ焼き屋たこ虎を経営している、しろーこと荻野友美です

まず題名を見てこのブログへ来てくださった方

 

本当にありがとう今から少し長くなりますがよろしくお願いします

 

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私事ではございますが8年前になる

東日本大震災2011.3.11の記録を残したくてブログを書いてます

今回この地震の話は

①自分編

②友達編

③ある大家さんの娘さん編と備えよう

と分けたいと思います

そして3月11日までには3部作を仕上げたいと思います

 

 

武勇伝を期待されていたらごめんなさい

1人の主婦が体験した小さな経験をお話しするだけです、それはへっぽこだし、とても誇れるような事はしてませんし後悔しかないのです

 

この話は三重県に帰ってきて親戚が開いてくれた私の会(ご飯を皆で食べる)でお話しした内容です

当時私は話すのに泣かないと話せませんでした…

それもこの1回限りで話した事はありません

今回は踏み込んで細かく書きたいと思います

 

私は震災後、鈴鹿市にて被災者に地震を語ってもらうみたいな会に

2度程呼ばれましたがそこでは防災の話をしました

なので当時自分が経験した事を話すのは

親戚が開いてくれたこの会と防災の話の際に少しお話しただけです

 

正直こうして書く事が本当に許されるのかも良い事なのかも

分かりませんが

きっと今皆に聞いて欲しいんだと思います

 

なぜ今なのか?

毎年この時期に見る夢とシーンがあります

それは人によっては悪夢というのでしょう

私にとっては忘れてはならない記憶なんだと思います

 

もう一つは人々の記憶からこの地震が薄れている

と感じているからです

 

もし叶うなら

これを通じて備えて欲しいと思うからです

決して脅している訳ではないです

備えあれば憂いなし

この言葉に尽きます

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〇が住んでいた所

 

まずは8年前に戻ります

2011年3月11日 金曜日

4人家族

宮城県宮城野区東仙台 

【後で分かりましたが(震度6強)】

隣は宮城野区の図書館があり

近くにガス局がある場所です

旦那41歳イオン仙台中山店

私34歳 

長女小学6年生 長男小学1年生

 

私はこの日 海沿いにある イオンにて

『ラーメンとスイーツの祭典』へ行くべく用意をしてました

予約の入場チケットも購入済み(ちなみに家族に内緒でした)

しかし11時頃小学校の本部役員の方から電話があり

役員の部長をやっていた私はやむなく12時から会議室へ行くことになりました

 

(ラーメン!スイーツ!っと思い14時には終わろう)

会議が終わり(会議室は1階)よしさぁ行こう

いざラーメン!と時計を見たとき14時40分ごろ

案の定会議が終わってもごたごたしていました

 

その時一人の携帯から聞いた事のない

ビュービューという音が鳴り響きました【曖昧です】

地震です地震です』と聞こえた記憶があります

それが小学校の警報だったのかが定かではないのですが

カウントダウンを始めたのです

10.9.8.7.6.

この時誰もただボーゼンと立っていました

(最近地震も多かったので)

5.

『備えて下さい』と聞こえた時

私は先ほど帰ったばかりの小学1年生の長男を思いグラウンドを見た

その瞬間窓の外のグラウンドの方向(丁度そちらが海)

遠くからゴゴゴゴゴゴーーーと音が聞こえて近づいて来たのです

 

はっっとなり皆を会議室にあった一番大きな机の下(理科の実験室のような)へ避難するよう声をかけました

が自分はグラウンドがバリバリバチバチと波打ち動くのを呆然と見ていました

その私を友達がグイっと引き込むように机の下へ避難

机の脚と友達と机のはしに必死につかまりました

ゴゴゴゴとバリバリバリミシミシが混ざった音が自分に到達した時

右方向回りに凄い勢いで揺れながら回ったのです

それは机と自分たちを一緒に一気に教室をビュっと滑り

ビュっと滑りを繰り返しました

ジェットコースターです

周りはキャーキャー言う声

学校の上からは小学校の子供達が叫んでいる声

それがずっと続いてとてつもなく長い時間でした

 

1分を経過した時

私の中の目の画面に

思い出のシーンが小さく写真の様に出てきたのです

この時実は怖くて笑いました

小さい頃の私や思い出

姉妹両親などの写真?が目の右端の方から

出てきて(言っておきます私はそういう事にうといです)

 埋まっていったのです。え?死ぬの?って心が

【嫌まだ死ねやん 何にもしてない やりたい事も何にも出来てない】

目をつむっても写真は増えて行くばかり

この時ばかりは、ちびるかと思いました

 

2分が経過する頃ジェットコースターの地震も慣れてきて

話し始めた…

私たち死ぬの?日本が終わった日本多分割れたんじゃないか?

友達が携帯のTVを付けて津波が来るとか〇m?聞こえた記憶があります

勿論まだ揺れてます

3分もする頃地震が収まり立ち上がった時やっと目の中の写真も消えてました

 

外のグラウンドを見たら先生達がフラフラしながら

子供たちを探しに出て行くのが見えました

アッ

下校途中のこうき(息子の名前)そして学校の最上階4階にいるりな(娘の名前)の名前を口に出したのを覚えています

 

出ようとしましたがドアが開かない

学校の非常用の扉が閉じて廊下が通じてない

母親たちの私たちは右往左往し

窓が開いたので窓から脱出しようと

したその時 第2弾の地震がドンっって来たのです 

 またか!来た!

また机の下へ潜ろうと思ったのですが

私はこれ以上避難出来ないとダメなので長机を必死に窓の間へ入れて

逃げれる様にしました

その時の学校の建物の音が恐ろしかった

これもう潰れたら絶対死ぬな…と

少しすると地震も止んだのでTVを聞くと

津波が7mとか9mとか…なんじゃこりゃ!

何があったのかが本当に分からなくて情報がなく不安でした

 

学校だった為上の教室からは子供たちの声で鳴り響いてました

私は4階の長女を迎えに行く為にまず非常用のドアを開けて

職員室へ行きました

その時見たのが緊急受け渡しのバインダーを職員室から運び出す先生達でした

私はPTAをやっていたので先生方に顔を知ってもらえてました

1組~の緊急バインダーを運んで欲しいと依頼され

それを運ぶ事にしたのです

4階まで上がったら教室で泣いてる子

廊下の端で震えている子

私にしがみつく子

勇敢にも皆を守っている子

皆を落ち着かせている子

何が何だか分からず分からない事を叫び右往左往する子

廊下の窓は割れとても危なかった

会議室の1階であの地震の揺れをこの子たちは4階でもっと揺れただろう…

それは恐ろしかったんだと思います

お母さんお母さんと泣いて泣いてパニックになっている子達に

何しろ”落ち着きなさい、すぐに両親が来るから”と言い聞かせ

各教室にバインダーを渡しやっと娘の所へ

娘はお母さんお母さんと抱き着きホッとしたようでした

他の子たちは怖くて私に抱き着いて来たので何分かは抱き合って居た

その時また余震が来て4階は1階よりも揺れてたのでそれは怖かったです

誘導する先生も居ませんでしたが担任の先生に娘を連れて行きますと報告し

次は下校途中の息子を迎えに自転車に乗りました

娘は6年生結構な大きさの子供を自転車の後ろへ乗せて猛スピードで家へと向かいました

とても静かだった風の音だけが耳に響いて凄いスピードゆえに娘がキャーと叫んでいたのを覚えています

家に到着しても息子の姿は無くもう必死で探しました

その時近所に住む同級生の女の子が家に居るよと教えてくれて

息子は同級生の家に避難していました

地震時息子は知らないおばさんに道端で覆いかぶさって助けてもらっていたらしくそんなに怖くはなかったと言っていました

ただ道が蛇の様にうねうねしそれが気持ちが悪かったと聞いてます

 おばさん本当にありがとう

 

 アパートの部屋には入れずぐちゃぐちゃでしたが

避難用具を引っ張り出しいる物を持ち出し夫が帰ってくるのをひたすら待ったのです

それまで忘れていた携帯を開き見た時通知の数に驚きました

着信履歴500件以上入っていたのです

それを開いた瞬間携帯の電源がそれに吸い取られどんどん電源の%が減り私は焦って電源を切りました確か80%程あったのが40%程までに一気に下がったのです

 

緊急時、安否確認したくて皆電話してくるよ、私もすると思う

でも電源が無かった私は電話してこないでって当時思ってました

安否確認の伝言ダイヤルに無事だと残したのを覚えています

夕方になっても夫は帰らず これは避難所へ行こうかと思い

大通りへ行くと避難所へ向かう人々の群れが埋め尽くしてました

夜になりやっと旦那は帰宅!なぜか旦那は大丈夫と思ってました

実は旦那は阪神淡路大震災の被災者なのです

なので大丈夫だろう…って2度目だし…

 

良かったと共にアパートの中は怖すぎて寝れないので車の中で寝る事になりました

 

本当に寝れない

雪がちらつき寒くて不安で暗くて真っ暗で

ガスの匂いが充満しとても火を焚ける状態でもない

皆携帯見たいけど充電出来ないからしてなかったな…

裏の大家さんのラジオの音だけが響いてた

携帯の電波なんか全然こないから電話も鳴らないし

勿論ネットにも繋がらない

 

でも

その時私の携帯‼が鳴ったんです

もうなんで?って皆の注目浴びまくり

 

これ書いて大丈夫かな…

まぁ大丈夫だろう…海上自衛隊の同級生からの電話でした

私の安否が気になって連絡したと…

事情は話せないがどうやって繋がったのか私には分からないのだけれど

「今、国が総力をあげて助けに行くから!俺たち絶対行くから大丈夫」

「大丈夫か?良かった」と言って直ぐに切れました

とても安心しました今こちらへ向かって来てくれてるんだって思ったからです

 

外に出て

その日の夜は回りの電気という電気が消えて

星がキラキラしてました

あぁめっちゃ綺麗

そう思った瞬間

その日初めて涙が出ました

悲しいとか空しいとかそういうのではなく

良く分からない気持ちでした

 

明日からどうなるのか分からない不安

いつまでも続く余震

いつ終わるのか

 

その中であんまりに非対称的な綺麗が見れて

良く分からない涙がツゥーっと流れたのだと思います

 

 

これが私の経験した東日本大震災3.11です

1日目

私は津波の現実をラジオからしか得られず何も分からなかった

多分県外の人の方が津波の情報を得ていたのではないかと思います

 津波の現状も分からないネットもない

テレビもない電話もない情報がないというのは本当に怖いです

 

後悔している事

それは

当時自分の事と家族が無事だったことしか考えてないという事です

 

自分勝手にも電話して欲しくないとか、明日から私どうなるの?とか

死にたくないとかお腹すいたとか

星が綺麗だとか…

他の友達の心配もせず

自分たちの事で精一杯

 

 

当時助けられた命がそこら中にあったのに

私は家族と自分の事しか見れなかった

 

 

皆さん読んでくれてありがとう

そして私の記憶の記録に付き合ってくれてありがとう

 

皆に読んでもらいたいとか書いたけど違う

多分

書く勇気を皆からもらいたかったのだと思います

 

次は友達編を記録したいと思います

良かったら見てください

 

荻野友美おぎのゆみ ことしろーでした

 

https://twitter.com/takotoraogi

letterpot.otogimachi.jp

 

 

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